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脱呪術化を行う場としての演劇 ——「マガイモノの生の意味」に抗って

【要約】

私が考える演劇とは、現代社会において特徴的な「マガイモノの生の意味」の備給に対抗しうる、社会システムの分析を含み込んだ脱呪術化の芸術である。演劇は、本来的に呪術・宗教と芸術の緊張関係のただなかに存在する芸能であり、ギリシア悲劇以来つちかわれてきた「構造的運命と人間的主体性の相克」という視座を提供しうる。これは、生権力的社会システムからの安易な「生の意味」の供給に対するすぐれたオルタナティヴかつカウンターとなる。

本文

演劇は、常に儀礼(ritual)めく。もちろん、演劇の発祥が儀式(ritual)に求められるからである。神話学者のジェーン・エレン・ハリソン『古代芸術と祭式』によれば、「その初めにおいては同じ一つの衝動が人を教会に向かわせ劇場に向かわせるのである」という。「同じ一つの衝動」とは、「希求する対象もしくは行為を表現すること、造ること、行うこと、もしくは増幅することによって、胸中に強く感じられている感動または願望を吐露し発表しようとする意欲」であるとし、「情緒要素こそ実に芸術と祭式とをその初めにおいてほとんど区別不能ならしめているものである」とする。だが、ハリソンが言わんとしていることは宗教的祭事・儀礼と芸術との親近性にとどまらず、その分離に重要な論点がある。「その初めおいて」同じである芸術と祭式は、分かたれる。祭式(ritual)からの脱却によって芸術が生まれるのである。このハリソンの論を、『古代芸術と祭式』においてもたびたび言及されるフレイザー『金枝篇』と比較してみると、芸術とは、祭式(ritual)からの「脱呪術化」と関連付けられることがわかる。『金枝篇』から引用すれば、「呪術の本来の誤謬と無効化についての遅々たる認識は、人類のより思索的な一部のものたちをしてより真実な宇宙観を抱かしめ、資源の獲得に関するより効果的な方法を案出せしめたことを私は示唆したい」とフレイザーが言うように、呪術的思考に支配された集団からの「思索的な一部のものたち」の離脱、それによる演劇あるいは芸術の誕生(もちろんここでの「思索的な一部のものたち」という言葉遣いが、マリノフスキーが指摘するようにフレイザーの進化論的思考を反映しているとはいえるが、私はマリノフスキーによるフレイザーへの批判は、的確ではないと考えている。その理由については長くなるので割愛する)。

私の演劇観は以上のような論考から導き出されたもので、演劇とは「個人・社会・世界を<外>がわから見続けようとする営み」だと思っている。集団における「呪術的思考」から逃れ続け、あるいは意識し続けようとする行為として演劇がある。であるからして、ニーチェがいうような、分断された個人が熱狂のさなかに合一的な一体感を得る場としての演劇、まさにそれだけを目的とした「演劇」を、私は「演劇」とは考えない。もちろん、演劇が「祭式」との原初的つながりを持つ以上、「集団的熱狂」とのつながりは否定できない。だが、そこからの離脱とそれへの警戒こそが、求められるというべきではないか。

では、なぜ私は現代的世界のなかで「呪術的思考」からの離脱としての演劇を目指すのだろうか。「呪術的思考」などもう古く、私たち現代人にはまったく関係がない事実であり、雨乞いなどしないし、処女を犠牲にもささげない、そのような問題はとっくの昔に解決済みではないか。そのような批判もあるだろう。だが、果たしてそうだろうか。
マックス・ウェーバーは『職業としての学問』のなかで、近代的学問は「脱呪術化」「魔術からの解放」であり、「真なる存在」への道は失われている、と述べた。であるから、「生の意味」を学問に求めることなどできない。「生の意味」を求める者は、キリスト教へと戻り、学問をあきらめるべきだと。これは、ドイツにおける第一次世界大戦末期の講演記録であり、敗戦の可能性が濃厚ななか、ドイツの若者たちが、頼るべき価値や存在を求め始めたことへの警戒としてある。わたしはひとまず、このウェーバーの警告は聞くに値する言葉であると思っている。この言葉は、「呪術的思考」へと立ち戻る「再呪術化」への警告であると同時に、「近代的学問」は連綿として続く「呪術的思考」を「脱呪術化」していく目的を持つことを確認するものであろう。では、もう一度問おう。「呪術」とはなにか。フレイザーによればたとえば「呪術」と「科学」のあいだに違いはない。なぜなら、「呪術」も「科学」もともに、「自然の運行は非伸縮的であり不可変的であって、脅迫と威嚇によっても、説得と懇願によっても転向せしめることの不可能を予想するのである」からである。それでは、それらを統合する意味での「呪術」とは、世界は「不可変」であることを前提としたシステムのことであり、「不可変」であるということはそのシステムのなかで「自足」しているということではないだろうか。それは、システムの外を想像しないことであり、システムからの解放を見ないことだろう。私はここで、素朴なロマン主義を想定しているわけでない。「外」の存在をナイーブに信じているわけではない。だから、「呪術からの離脱」を行うためには、<外>を想定することではなく、「呪術」置き換えれば、「不可変」なシステムを克明に分析すること、そしてその「不可変」であることが招くこととなる「運命」を描き、その「運命」について考える場を開くこと。それが演劇に他ならない。だからこそギリシア悲劇は「運命」を描き、その「運命」の犠牲者を描いたのだ。これは、その「運命」を甘受するためではなく、「運命」を見つめ、分析するためである。

さらにウェーバーは「本当の教員なら、教壇の上から聴講者に向かってある立場を明示的にも暗示的にも押しつけることがないように用心するでしょう。なぜなら、『事実をして語らしめるふり』をしてある立場を示すことは、言うまでもなく最も不誠実なやり方」とも述べている(この箇所について、現在出版されている日本語訳は全て反対の意味に誤訳しているが、これについてもここで詳細には立ち入らない)。だが、ドイツにおける第一次世界大戦末期の状況とは違う。ウェーバーは「真なる価値」がない状況、つまり神の喪失に耐えろと要求した。「マガイモノの神」に、「代替宗教」へと人々が扇動されないように。現状はどうだろう。演劇にしてもテレビドラマにしても、「生きる価値」を供給するドラマであふれている。「生」への肯定ばかりだ。だが、それは、システムへの分析ぬきに行われており、「生権力」への反抗の姿勢は見られないものがほとんどである。人々は「生きる意義」のない「生」に耐えられない。そう人々もニヒリスティックに理解しているかのように。そうであるなら、「マガイモノの生きる価値」を脱呪術化し、さらには、その「価値」をめぐって「価値の闘争」を行う場として演劇を想定することこそ行うべきではないか。「絶対的な権力」を目指すわけでもなく、「勝ち負け」を競うわけでもない「価値の闘争」を。そうでなければ、「生権力」のまえに無力を露呈し、意気阻喪して生きる「生者」になるしかないだろう。

(2013年8月)

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