DONALCA PACKHAN

ドラマ『嫌われる勇気』の卑小さについて

『嫌われる勇気』は刑事ドラマである。何らかの殺人事件が起き、それを解決するまでが描かれる一話完結型である。私がこの記事を書いている時点で第六話までが放送され、おそらく七人の人物が殺されている。そうして登場人物の一人である青年はその殺人から人生訓を学ぶ。原作の著者の一人である岸見氏はドラマに関して次のように述べている。
刑事ドラマという装飾を取り払って考えたとき、このドラマは仕事や人生に悩む「青年」の成長物語としてつくられています。そして人生の諸問題を解決するヒントとして、アドラーの教えを提示している。
このドラマの卑小さはまさにここにある。ドラマ『嫌われる勇気』は、青年が「成長」するために、続々と人を殺しているのである。私はこう言ったドラマツルギーの作法に嫌悪感を抱く。

第六話を例にしてみよう。青年にあたる登場人物・青山は、主人公である庵堂蘭子という同僚の刑事に振り回されている。第六話の冒頭(第五話のラスト)は、蘭子が若い男に抱きつき、仲良く歩いているのを青山が目撃するシーンである。普段の言動からは想像できない蘭子の様子に、青山は「蘭子が男に騙されているのではないか」と想像し、教授である大文字哲人のもとを訪れる。この教授と青年のシーンは、いつものお決まりである。青山の「ああいうタイプに限って、他人の言葉をコロッと信じちゃったりするんですよ」という発言に対して、大文字はこう答える。
なぜ信じてはいけないんでしょうか? アドラー心理学では、信じるという言葉を、信用と信頼とに区別して考えます。……例えば銀行でお金を借りようとすると担保が必要になりますよね。担保と引き換えにお金を貸す。つまり条件付きです。これは信頼ではなくて信用なんです。…これに対して信頼は、他者を信じるにあたって、一切の条件をつけないということなんです。
そのような対話を交わしていると、青山の携帯がなる。殺人事件が起きたのだ。殺人事件の概要はこうだ。とある夫婦がいて、夫が妻の浮気を疑う。実は妻に不貞はないのだが、浮気相手だと勘違いした男を殺害してしまうというものだ(サイドストーリーも関連して進行するのだが、ここでは省く)。もちろんこのようにシンプルにしてしまうと、このドラマのサスペンス要素を一切排除することになるのだが、ドラマの構成ははっきりする。つまり、青年が「信用と信頼」について学ぶために、この殺人事件が呼び寄せられているのである。今回の課題に対して、この殺人事件はうってつけだ。そして青山は教授・大文字に対してこのように報告する。
僕なりに信頼について考えてみたんですけど、条件なしに相手を信じるってことは、その人を信じる自分を信じるってことですよね。…自分を信じてこその、他者への信頼なのかなって。
大文字は「気づきは実践への第一歩です」と返す。

そう、これは課題を与えられた青年が、良い教材(殺人事件)を見つけ、教授に成果報告をし、「合格」印をもらう話なのだ。

ここで注意していただきたいのは、「事件」が起きて、その状況・事実を知っていくにつれて、ある倫理的な課題が浮かび上がってくるわけではないということだ。この場合であれば、登場人物は「事件」から、世界についてのある真相を学ぶという構成である。だが、『嫌われる勇気』では、まず出来合いの「課題」がある。そうして、その教材として「事件」が扱われているのだ。それは青山が加害者(殺人者)にかける言葉からもはっきりする。
若い妻が若い男と浮気しているんじゃないか。疑いの心で見れば、どんなものだって浮気の証拠に見えてくるんです。……奥さんを信じなかったせいで、あなたは勝手に疑いの穴に落ちて行ったんです。
まるで道徳の授業の感想である。「信用と信頼」というお題目を与えられた生徒が、フィクションの事件に対して模擬回答をしているようだ。実際に殺人事件が起きているにも関わらず、だ。現実というのは、「無条件に人を信じたい」という部分と、「証拠を必要としてしまう」というその狭間にあるのではないか、とあまりに常套句を言いたくなる。なんにしろ、「お題目」にとらわれ、事件の具体的な様相に踏み入らないことで、青年である青山は自らの「成長」という物語を守っているのである。現実の複雑さを前にして、「課題」という枠組みを通してしか向き合えないこのような態度こそ、「勇気」に欠ける、というべきではないか。

このドラマでいう「課題」は、アフォリズムの形式をとっている。それは、世界の断片を名指すものであって、世界の全体のあり方を保証するものではない。青年・青山のやるべきことは、自らが抱えている課題と、実際の事件との距離を見つけることだ。でなければ、彼はアフォリズムに囚われた人間になり、「他者」に触れることなど永遠にできないだろう。

「私はこう言ったドラマツルギーの作法に嫌悪感を抱く」と書いた。それは、実際の殺人事件を「教材」化するドラマツルギーをエンターテイメントとして創作している人々に向けられている。このドラマを作っている人々には、「課題の分離」や「信用と信頼」などと言った高尚なことを考える前に、創作物において「人を殺す」ということの意味を考えていただきたい。ドラマ『嫌われる勇気』が人々の生き方に何かヒントを与えようとしているとして、だとすれば、殺人事件が起きるたびに、それを自らの成長の糧にし、殺人者の前で「課題の分離」や「信用と信頼」について滔々とお題目を述べるよりも、「人を殺してはいけない」と何百回でも叫ばせるべきではないだろうか。

「人生を生きるためのヒント」が、あさっての方向を向いているように思うのは、私だけだろうか。このドラマが、「日本アドラー心理学会」から正式な抗議を受けていることは知っている。だが、ドラマが「アドラー心理学」をきちんと反映しているかどうかよりも先に、ドラマとして、あまりに卑小な作品であると私は思う。

(付け加えれば、鈴木亮介演ずる銭形警部の「悪は許さん!」という言葉の方がずっと人生の役に立ち、「あー、今回も面白い殺人事件だった」というようなカンバーバッチ演ずるシャーロック・ホームズの方が圧倒的に真っ当な人物なのである)

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